SATOSHI SODA ACHIEVEMENTS
なぜ出生前診断を専門にしたのか
HISTORY
不妊治療への関心から、今の専門へ
産婦人科医になった頃、最初から出生前診断をやろうと思っていたわけではありません。実は、いちばん興味があったのは不妊治療でした。医者になったのが1980年代後半で、体外受精が「試験管ベイビー」などと呼ばれて大きな話題になっていた頃です。これはこれからすごく発展する分野だろうなと思っていました。ただ、当時の大学では、最先端の不妊治療を十分に学べるような環境がまだ整っていませんでした。
ちょうどその頃、医局に胎児診断や胎児治療を専門にしている先生がいました。国内でも、そういうことをやっている施設はまだ数えるほどしかなかった時代です。その先生の仕事を手伝うようになったことが、今の専門につながった最初のきっかけだったと思います。

命を救えない葛藤と、産科で知る喜び
医師になって数年の頃は、大学や総合病院で婦人科がんの患者さんもかなり診ていました。子宮頸がんや卵巣がんには若い患者さんもいて、当時の医療ではどうしても救えない方もいました。治したいと思ってもできない。医師として、自分にできることの少なさを感じる場面は何度もありました。
産科にいると、また少し違う感覚がありました。出産は、一般に思われているよりずっと危険を伴うもので、母体にも赤ちゃんにも命に関わることがあります。緊張する場面も多いのですが、無事に赤ちゃんが生まれて、お母さんやご家族がほっとした顔をする。その場に立ち会えることは、やはり嬉しかったです。そういう経験を重ねるうちに、だんだん周産期のほうに気持ちが向いていきました。
当時は「Fetus as a patient――胎児も一人の患者である」という考え方が広がり始めた時期でもありました。お腹の中にいて、自分では何も訴えることができない赤ちゃんを、一人の患者として診る。病気によっては妊娠中に診断して、胎児治療ができるものもある。これは自分にとってかなり惹かれる考え方でした。
出生前診断は自分の専門
その後、遺伝医学の大学院に進み、遺伝子や染色体の研究をするようになりました。そこから出生前診断との関わりも、さらに深くなっていきます。30代のときには国の在外研究員制度で、米国ボストンのタフツ大学ニューイングランドメディカルセンター遺伝医学教室に留学しました。当時、胎児遺伝医学の最先端の一つで、Diana Bianchi先生のもとで研究に触れら れたことは、その後の自分にかなり影響しています。
産科医は母体と胎児を同時に診ますが、当時、胎児を専門的に診る医師はまだ多くありませんでした。新しい検査や技術が出てきて、それまで分からなかったことが分かるようになる。治療につながることもある。そういうところに面白さも責任も感じて、気がつけば出生前診断が自分の専門になっていました。




語り手プロフィール
宗田 聡(そうだ・さとし)
広尾レディース院長/医療法人HiROO理事長。1988年筑波大学卒業、1996年同大学院博士課程修了(遺伝医学)。1999年より文部科学省在外研究員として米国タフツ大学遺伝医学特別研究員。茨城県周産期センター長・筑波大学臨床准教授を経て、2012年広尾レディース開院。
医学博士。日本専門医機構認定産婦人科専門医、臨床遺伝専門医・指導医、日本医師会認定産業医。日本産婦人科医会先天異常委員会委員長、日本周産期メンタルヘルス学会評議員、出生前検査認証制度等運営委員会施設認証ワーキンググループ委員。
主な著書に『周産期マニュアル』(総編集)、『改訂・これからはじまる周産期メンタルヘルス』『EPDS活用ガイド』(いずれも南山堂)など。
公開日:2026.9.18
最終更新日:2026.9.18